映画 「セル」 [映画]
ネットフリックスでみました。
原作本を読んで感想を書いたのは、10年前だった。マジか。
(記事はこちら)
↑にも書いていますが、この「セル」は、携帯電話の事です。
念のため書いておきましょう。
この映画は「ゾンビ映画」ではありません。
映画 「セル」
原作:スティーヴン・キング 監督:トッド・ウィリアムズ
出演:ジョン・キューザック、サミュエル・L・ジャクソン ほか
松竹(DVD¥2900くらい)
オススメ度 ★★★☆☆(何も考えないで血肉ドバーを見るだけなら。
理由とかを考えてしまうと、星1個。)
デ・ジャ・ヴー。
ジョンキューザックとサミュエルエルジャクソン。
「1408号室」じゃないッスか。(当ブログの記事はこちら)
何か、パラレルワールドを見せられているみたい。
もちろん違う人です。
「1408号室」は2007年、「セル」は2016年に撮影されています。
以下、超ネタバレ。
この映画は、ゾンビ映画ではなく、
何者かによる、人類総『更新』作戦の話です。
*****
オープニングは、主人公が空港にいるシーン。
空港にいる人たちは、誰も彼も、携帯電話を使っている。
主人公は、コミック作家らしい。
妻と小さな息子とは、別居しているらしい。
コミックの売り込みがうまくいけば、復縁できると思っているらしい。
で、空港から、妻と息子に「うまくいきそうだ」と電話をかける。
でも、話の途中で電池が切れてしまう。
「充電しなきゃ。充電、充電…」
すると突然、周りの人たちが狂いだす。
たくさんの人が、見境なく隣の人に襲いかかり、どんどん人が倒れていく。
主人公は、すぐに「携帯電話が原因だ」と気づく。
↓原作を読んだ時の私の文章の引用。
> 普通のパニックものであれば、原因が携帯電話である、という事を
> 主人公が突き止めるまでに相当の枚数を使うのではないか。
> そして、携帯電話をどうにかしなければ!という展開になるのではないか。
> しかし、この作品では、人々は皆、こういった事情をすぐに知る(知っている)し、
> 携帯電話をどうにか「しない」。どうにも「できやしない」のだ。
主人公は、空港から逃げ出し、地下鉄の駅に行く。
すると、止まった車両の中で、サミュエルエルジャクソンと遭遇。
(彼も、原因が携帯電話だとすでに気づいていた。)
一緒に線路を歩いて脱出する。
少しずつ仲間を増やしながらの逃避行の中で、
「ヤツラ」は、日没と共に活動を停止すると気づき、
ニンゲンたちは、昼間眠って、夜に行動するようになる。
そして、割と早い段階で、
「夜、ヤツラは一か所に集まって寝ていて、何をしても起きない」
という現場に遭遇。
この時、ヤツラの口から、ラジオみたいに同じBGMが流れ出している事にも気づく。
ヤツラはやはり、ニンゲンではない。
で、ヤツラを一網打尽に焼き払う。
(このシーン、原作では必然性を感じたけど、映画ではあまり感じなかったわ…。
ニンゲンの方が狂気に満ちて見えた。
例えば「バイオハザード」などでは、襲ってくるゾンビを、
車や飛行機でまるで物のようにガガガガーってなぎ払っても、
「襲ってくるんだから仕方がない」と思えるだろう、と思う。
でも、この映画ではそう思えなかった。
たぶん、わざと、そう思えないように作ってあったと思う。
でもこれは、計算ミスだったと思う。
最後に、ニンゲンとヤツラの『逆転感』があれば、きっちり、つじつまが
合っただろうに、この映画にはそれが無かった。
この件については、また最後に書きます。)
ある時、主人公は、ニンゲン達が皆、同じ悪夢を見ていることに気づく。
悪夢に出てくる男(赤いパーカーの男)は、主人公のコミックの登場人物(悪役)だった。
これはヤツラの攻撃か?
(ん?あれ?これってダークハーフ的な話だったっけ?
原作でもそうだったかしら?)
元自宅では、妻もヤツラの一味になってしまっていた。
悲しい。
息子が居場所を書き残していたので、ワナかもしれないと知りつつ、そこに向かう事に。
ある時、一行は、携帯電話が山と積まれて、焼かれている現場を目撃。
携帯電話はもういらないのか?
そうなんです。
ヤツラは既にバージョンアップしていたのです。
口からヴァアアアーみたいな音を出して、それをニンゲンに聞かせれば、
仲間にする事ができるようになっていたのです。
そのせいで、また数人の仲間を失う事になりました。
(これ、変じゃない?
仲間を増やすことが目的なら、ニンゲンを殺さない方が良いよね?
この映画がゾンビ映画と違うのは、ヤツラが襲ってくる理由が、食欲ではない事。
それに、ゾンビ映画は「襲われて感染してゾンビになっちゃう」のも重要要素だけど、
この映画では、襲われても感染しない。
当初、ヤツラは、携帯電話を使わない=仲間にならない(仲間ではない)ニンゲンを、
駆逐していたのでしょう。で、途中から、携帯電話を使わなくても、
ニンゲンを仲間に出来るようになったんだよね。
だったら、もう、ニンゲンに暴力をふるう必要は無いよね?
仲間を増やしたいなら、けがをさせず、ひたすら音を聞かせるだけで良いよね?
ケガがもとで死んじゃう人が出るのはおかしい。)
終盤、主人公は、どうやら赤いパーカーの男がヤツラを率いているらしいと気づき、
直接対決を決意する。
(これも何か変…。
扇動者がなぜ赤いパーカーの男なのか?
そもそも始めからそうだったのか、途中からなのか?
主人公は売れないコミック作家なんだから、なぜ彼のキャラが利用される?
いろいろ、しっくりこない。)
ラストがこれがまた、わかりにくいんですが。
主人公は、単身、夜、ものすごい数のヤツラが集まっている場所に行き、
ついに赤いパーカーの男を倒し、息子と出会い、
しかし息子が既にヤツラの仲間になっている事がわかり、
絶望のうちに、仕掛けておいた爆弾のスイッチを押して大爆発!
場面が変わり、昼間、主人公は小さな息子の手を引いて、
仲間の待つ町に向かって歩いていく…
……
…というのは夢想だったらしい。
赤いパーカーの男の扇動のもと、主人公が、たくさんのヤツラと一緒になって
「ヴァアアアー」とか言いながら大行進しているシーンで、映画は終了。
どこから夢想だったんだ?
もしかしてマルチエンディング?
えーーーーと。
↑でも書いてますが、変だなーと思ったところを挙げてみる。
・誰が何の目的でこれを仕掛けたのか、最後までわからない。
・話の展開からして、私は、冒頭に書いたように、「人類総『更新』作戦」だったと思う。
でも、だとすれば、新ニンゲンが旧ニンゲンを襲う必然性が無い。
単に、お話の中にショッキングなシーンが必要だから襲ってる、って感じ。
まあそれでも良いんです、手段が目的になる、それはそれで良い。
そういうホラー映画もアリ。
でもさ、じゃあさ、理屈を考えさせたらダメじゃん、まったく抜きの無茶苦茶話にすれば良かったじゃん!(半ギレ)
・ニンゲンが見させられた悪夢の登場人物が、なぜ主人公の描いたキャラなのか?
例えば主人公が過去に悪夢キャラを描いていて、爆発的にヒットしたが、
今はさっぱり…的な過去の経緯でもあれば、納得できる。でもそうじゃない。
「アイアムアヒーロー」の、ぱんついっちょキャラみたいな、集合意識の中で芽生えたモノでもないんでしょ?
よーするに、主人公が選ばれた理由が全くわからない。
パラドックス的になるけど、「主人公だから」だとしか思えない。
むしろ最初から最後まで主人公の妄想だったとしたら、納得できる。
んなわけないか。
・終盤に、「アイ・アム・レジェンド」のような、価値観の逆転が欲しかった。
あの幕切れになるなら、そのリクツが必要だと思ったんだけど。
すでに新ニンゲンの方が「正」しく、旧ニンゲンは、絶滅するのみ…って事で。
だからこそ、主人公は、息子と共に、新ニンゲンの仲間になることを選んだんだ…
と、納得したかったんですよね、私。
理屈っぽすぎるかなあ。
「仲間にはならん!」の場合は、バクハツですよね。
これくらいかな。
じゅうぶん多いか。
また思いついたら追記しましょう。
原作本を読んで感想を書いたのは、10年前だった。マジか。
(記事はこちら)
↑にも書いていますが、この「セル」は、携帯電話の事です。
念のため書いておきましょう。
この映画は「ゾンビ映画」ではありません。
- ショップ: 楽天ブックス
- 価格: 2,989 円
映画 「セル」
原作:スティーヴン・キング 監督:トッド・ウィリアムズ
出演:ジョン・キューザック、サミュエル・L・ジャクソン ほか
松竹(DVD¥2900くらい)
オススメ度 ★★★☆☆(何も考えないで血肉ドバーを見るだけなら。
理由とかを考えてしまうと、星1個。)
デ・ジャ・ヴー。
ジョンキューザックとサミュエルエルジャクソン。
「1408号室」じゃないッスか。(当ブログの記事はこちら)
何か、パラレルワールドを見せられているみたい。
もちろん違う人です。
「1408号室」は2007年、「セル」は2016年に撮影されています。
以下、超ネタバレ。
この映画は、ゾンビ映画ではなく、
何者かによる、人類総『更新』作戦の話です。
*****
オープニングは、主人公が空港にいるシーン。
空港にいる人たちは、誰も彼も、携帯電話を使っている。
主人公は、コミック作家らしい。
妻と小さな息子とは、別居しているらしい。
コミックの売り込みがうまくいけば、復縁できると思っているらしい。
で、空港から、妻と息子に「うまくいきそうだ」と電話をかける。
でも、話の途中で電池が切れてしまう。
「充電しなきゃ。充電、充電…」
すると突然、周りの人たちが狂いだす。
たくさんの人が、見境なく隣の人に襲いかかり、どんどん人が倒れていく。
主人公は、すぐに「携帯電話が原因だ」と気づく。
↓原作を読んだ時の私の文章の引用。
> 普通のパニックものであれば、原因が携帯電話である、という事を
> 主人公が突き止めるまでに相当の枚数を使うのではないか。
> そして、携帯電話をどうにかしなければ!という展開になるのではないか。
> しかし、この作品では、人々は皆、こういった事情をすぐに知る(知っている)し、
> 携帯電話をどうにか「しない」。どうにも「できやしない」のだ。
主人公は、空港から逃げ出し、地下鉄の駅に行く。
すると、止まった車両の中で、サミュエルエルジャクソンと遭遇。
(彼も、原因が携帯電話だとすでに気づいていた。)
一緒に線路を歩いて脱出する。
少しずつ仲間を増やしながらの逃避行の中で、
「ヤツラ」は、日没と共に活動を停止すると気づき、
ニンゲンたちは、昼間眠って、夜に行動するようになる。
そして、割と早い段階で、
「夜、ヤツラは一か所に集まって寝ていて、何をしても起きない」
という現場に遭遇。
この時、ヤツラの口から、ラジオみたいに同じBGMが流れ出している事にも気づく。
ヤツラはやはり、ニンゲンではない。
で、ヤツラを一網打尽に焼き払う。
(このシーン、原作では必然性を感じたけど、映画ではあまり感じなかったわ…。
ニンゲンの方が狂気に満ちて見えた。
例えば「バイオハザード」などでは、襲ってくるゾンビを、
車や飛行機でまるで物のようにガガガガーってなぎ払っても、
「襲ってくるんだから仕方がない」と思えるだろう、と思う。
でも、この映画ではそう思えなかった。
たぶん、わざと、そう思えないように作ってあったと思う。
でもこれは、計算ミスだったと思う。
最後に、ニンゲンとヤツラの『逆転感』があれば、きっちり、つじつまが
合っただろうに、この映画にはそれが無かった。
この件については、また最後に書きます。)
ある時、主人公は、ニンゲン達が皆、同じ悪夢を見ていることに気づく。
悪夢に出てくる男(赤いパーカーの男)は、主人公のコミックの登場人物(悪役)だった。
これはヤツラの攻撃か?
(ん?あれ?これってダークハーフ的な話だったっけ?
原作でもそうだったかしら?)
元自宅では、妻もヤツラの一味になってしまっていた。
悲しい。
息子が居場所を書き残していたので、ワナかもしれないと知りつつ、そこに向かう事に。
ある時、一行は、携帯電話が山と積まれて、焼かれている現場を目撃。
携帯電話はもういらないのか?
そうなんです。
ヤツラは既にバージョンアップしていたのです。
口からヴァアアアーみたいな音を出して、それをニンゲンに聞かせれば、
仲間にする事ができるようになっていたのです。
そのせいで、また数人の仲間を失う事になりました。
(これ、変じゃない?
仲間を増やすことが目的なら、ニンゲンを殺さない方が良いよね?
この映画がゾンビ映画と違うのは、ヤツラが襲ってくる理由が、食欲ではない事。
それに、ゾンビ映画は「襲われて感染してゾンビになっちゃう」のも重要要素だけど、
この映画では、襲われても感染しない。
当初、ヤツラは、携帯電話を使わない=仲間にならない(仲間ではない)ニンゲンを、
駆逐していたのでしょう。で、途中から、携帯電話を使わなくても、
ニンゲンを仲間に出来るようになったんだよね。
だったら、もう、ニンゲンに暴力をふるう必要は無いよね?
仲間を増やしたいなら、けがをさせず、ひたすら音を聞かせるだけで良いよね?
ケガがもとで死んじゃう人が出るのはおかしい。)
終盤、主人公は、どうやら赤いパーカーの男がヤツラを率いているらしいと気づき、
直接対決を決意する。
(これも何か変…。
扇動者がなぜ赤いパーカーの男なのか?
そもそも始めからそうだったのか、途中からなのか?
主人公は売れないコミック作家なんだから、なぜ彼のキャラが利用される?
いろいろ、しっくりこない。)
ラストがこれがまた、わかりにくいんですが。
主人公は、単身、夜、ものすごい数のヤツラが集まっている場所に行き、
ついに赤いパーカーの男を倒し、息子と出会い、
しかし息子が既にヤツラの仲間になっている事がわかり、
絶望のうちに、仕掛けておいた爆弾のスイッチを押して大爆発!
場面が変わり、昼間、主人公は小さな息子の手を引いて、
仲間の待つ町に向かって歩いていく…
……
…というのは夢想だったらしい。
赤いパーカーの男の扇動のもと、主人公が、たくさんのヤツラと一緒になって
「ヴァアアアー」とか言いながら大行進しているシーンで、映画は終了。
どこから夢想だったんだ?
もしかしてマルチエンディング?
えーーーーと。
↑でも書いてますが、変だなーと思ったところを挙げてみる。
・誰が何の目的でこれを仕掛けたのか、最後までわからない。
・話の展開からして、私は、冒頭に書いたように、「人類総『更新』作戦」だったと思う。
でも、だとすれば、新ニンゲンが旧ニンゲンを襲う必然性が無い。
単に、お話の中にショッキングなシーンが必要だから襲ってる、って感じ。
まあそれでも良いんです、手段が目的になる、それはそれで良い。
そういうホラー映画もアリ。
でもさ、じゃあさ、理屈を考えさせたらダメじゃん、まったく抜きの無茶苦茶話にすれば良かったじゃん!(半ギレ)
・ニンゲンが見させられた悪夢の登場人物が、なぜ主人公の描いたキャラなのか?
例えば主人公が過去に悪夢キャラを描いていて、爆発的にヒットしたが、
今はさっぱり…的な過去の経緯でもあれば、納得できる。でもそうじゃない。
「アイアムアヒーロー」の、ぱんついっちょキャラみたいな、集合意識の中で芽生えたモノでもないんでしょ?
よーするに、主人公が選ばれた理由が全くわからない。
パラドックス的になるけど、「主人公だから」だとしか思えない。
むしろ最初から最後まで主人公の妄想だったとしたら、納得できる。
んなわけないか。
・終盤に、「アイ・アム・レジェンド」のような、価値観の逆転が欲しかった。
あの幕切れになるなら、そのリクツが必要だと思ったんだけど。
すでに新ニンゲンの方が「正」しく、旧ニンゲンは、絶滅するのみ…って事で。
だからこそ、主人公は、息子と共に、新ニンゲンの仲間になることを選んだんだ…
と、納得したかったんですよね、私。
理屈っぽすぎるかなあ。
「仲間にはならん!」の場合は、バクハツですよね。
これくらいかな。
じゅうぶん多いか。
また思いついたら追記しましょう。
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